メディアセンターの「メディア」は、「間に取り入って媒介する」という意味

2008年と2011年に提唱した「メディアセンター構想」とよばれる試案。「メディア」には、さまざまな意味があります。

一般的には、

情報の伝達や記録に用いられる物体や装置、およびこれを利用して人に情報を伝達・配布する仕組みや事業、組織などを指す。

一般の外来語としては、人が人に情報を伝えたり広く報じるのに用いるモノや仕組みを指し、広義には電話や手紙、書籍、テレビ、映画、電子メール、Webサイトなど様々な伝達手段が含まれる。

というものをあげることができます。

誤解を招かないことを願いつつ、大切にしたいのはメディアセンターの「メディア」の意味が、デジタルメディアやアナログメディアと同一ではないということです。「メディア」本来の「media(メディア)」は「medium(メディウム)」の複数形である点を重視しています。

「medium」は、中間にあるもの、間に取り入って媒介するもの、という意味だといわれています。この「中間にあるもの、間に取り入って媒介するもの」という意味を重視しています。既存のさまざまな教科の「間に取り入って媒介する」という意味で、その複数形の「media(メディア)」を使って、「メディアセンター」としました。

つまり、「メディアセンターを仲立ちにして、教科同士がつながる役割を果たす」ことを目的にしています。

教科横断的な学習の起点になる場所として、メディアセンターを位置づけるべきだと考えています。

教科という枠組みが強固な学校では、教科横断的な学びを生み出すことが、非常に難しいと思っています。それを確実に実行するためには、これまでにはない組織で推進していくべきだと考えています。そのために「メディアセンター構想」を提案しました。

これまでのような図書館を転換するようなメディアセンターとは一線を画しています。「置き換え」ではなく、これからの時代に相応しい学びを生み出す場として、メディアセンターを考えています。

いま流行のSTEAM教育だって、ある意味、教科横断型でしょ?

以前は、「A」のないSTEM教育でしたが、今は、「A」の入ったSTEAM教育。

STEAM教育とは、

Science(科学)
Technology(技術)
Engineering(工学・ものづくり)
Art(芸術・リベラルアーツ)
Mathematics(数学)

の5つの単語の頭文字を組み合わせたものですよね。

科学は小学校なら理科かなあ。
技術は、家庭科でしょうか。
「工学・ものづくり」かあ。これは教科に当てはめるのは、ちょっと難しいかも。「工学」に着目すれば、理科との関係が深いような気もする。
「芸術・リベラルアーツ」と合わせて、図画工作科といえなくもない。もちろん音楽科の内容も含まれていると考えるべきでしょう。
数学は、数学で小学校だと算数でしょう。

STEAMを教科で捉えようという時点で、実は古い頭かもしれません。これまで「教科」という縦割りの学習が主流だったので、それに合わせるとこんな感じ、という見方です。

STEAM教育を実現するためには、既存の教科との対応を考えない方がよいと思っています。「教科」という枠組みが強固な学校にあっては、新しい「STEAM教育」という教科が生まれたという考え方の方が受け入れられやすいようにさえ思えてきます。

教科という分断された学びからの脱却。

これこそが「メディアセンター構想」の基本的な考え方です。

教科横断的な学びは、暮らしと学びを結びつける試み

教科という枠組みで暮らしていない。教科というのは、学校の授業でいかに効率よく教えるかを考えた枠組み。

暮らしのなかにも、さまざまな学びがある。しかしその時に、これは何という教科の学びだなあ、なんて考えることはない。教科というのは学校の勉強の枠組み。教科の枠組みを強くすれば、それだけ学びは日常と乖離する。

だから教科とを基準にしない学びが、新しい学びを生み出す。教科横断的な学びというのは、学校を基準とした学びから、日常の学びにするための試み。

だから、テーマを重視した学びを生み出すために「メディアセンター構想」を立てたのは、2008年。2011年にブラッシュアップしたけど、そのまま放置されてしまった。

教科ではなくテーマで学ぶ。

テーマに合わせて教科を学ぶ。日常の暮らしの中では、そういう学びがいかされていくのではないだろうか。

「教えるため」の教材研究よりも、「楽しむため」の教材研究

情報科は、iPadを使った授業がメイン。そうなると、それだけで子どもたちの学びの意欲は高い。だからある意味で、注意が学びに向いている。

楽しいを伝えることが一番、大切。

そのためになにをどのうようにしたら良いかを考え続けている。強制された学びは、身にならない。楽しいと思えば、自然に学び始めると思うんだよなあ。

学ばないのは、楽しくないから。楽しくないことは、誰だってしたくない。でも学校では、楽しかろうが楽しくなかろうが、学ぶことが求められる。それって本当に正しいのでしょうか。楽しいのない学びをいくら積み重ねても、学びからの逃走が生まれるだけじゃないのでしょうか。

教えようというよりも、楽しんできた授業

これまで、授業を続けてきた。もう20年以上。その時に考えてきたこと。それは、

楽しさの共有

という考え方。教えようなんて、これぽっちも思ってこなかった。教えるなんて、そんな傲慢な考えはできないと思ってきた。なぜならば、教育という世界では、まったくの素人だという自負があるから。

自分の専門は、歴史学。初等教育なんて、ずぶの素人。しかし、子どもたちの前に立っている。そして授業をしている。その時に思ったこと。

教えることなんてできないけど、自分が楽しいと思うことを一緒に楽しむことはできる。

ある意味で、自分の「楽しいの押しつけ」。自分が楽しいと思うんだから、君たちも全体に楽しいと思えるはずだ。だから一緒にやってみよう。

楽しいと思えないときは?

授業をする時に、そんな風に思うことはなかった。楽しいことがあるから、子どもたちの前に立った、話をすることができた。

だからいわゆる教材研究は、自分の楽しいどう伝えるかだけを考えてきた。教えるための教材研究って、本当に正しいのだろうか。そう常に疑問をもちながら、これまで過ごしてきた。

2023/11/16 楽しい授業を考えてみよう

楽しい授業を考えてみよう。

そういうお題にすれば良いことに気が付きました。

年をとると、新任の先生の研修に引っ張り出される。そこで思ったこと。

授業を楽しんでいますか?
楽しい授業を心がけていますか?

楽しいか楽しくないかを考えずに、「教えよう」ばかりでは息が詰まる。それは教師も子どもの同じじゃないかなあ。そうかあ、と納得。

教えよう、身につけさせようと考えてばかりで、楽しさを教えていないみたい。自分は?

自分が楽しいと思わなあいと授業ができない。楽しいとも思っていないものを子どもたちには伝えられない。だから、教材研究は、自分が楽しいと思えるにはどうしたら良いかしか考えてこなかった。
楽しいがなくても、どう役に立つのか。楽しくなくても役立つことだから覚えておくも、学びのモチベーションイは必要なこと。

学ばせようとしても学ばない。学ばせようとしなくても、楽しいと思えれば、自分で学び始める。まずは、「楽しい」から始めるべきだと思うんですよね。