5年生は「お弁当の解体」:5年生家庭科の3学期の1回目

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2017年1月14日、5年生家庭科の3学期の1回目。

5年生の家庭科の3学期の課題は、お弁当の解体。
もう随分と長いこと、この課題。

今年の5年生は、1人1台のiPad miniがある。
iTunes Uのコースを活用して、自分で進めてもらおうという作戦。

まずは、コースの追加。
コースを追加したら、「お弁当ってなに?」という質問に答えてもらう。

遠足や社会科見学。
非常に身近な「お弁当」。
例年のいつも通りの質問。

お弁当を知らない人はいますか?

子どもたちから、失笑が漏れる。
「知らない人なんているわけないでしょ?」という蔑んだ笑い。
今年も、期待通りの態度。
「知らない人」は、どうやらいない。

ここからが、本当の質問。


知らない人がいないなら、「お弁当」について説明してください。


なぜか、すぐには手が上がらない。


知っている、というから、「説明して」と質問したんだけど。


そうすると、やっと数名の手が上がる。
期待通りに、十分な説明が戻ってこない。
要領のよい子どもは、iTunes Uのコースの「情報」に記載されている「お弁当」を読み上げる。

それじゃあ、意味がない。
なぜならば、知らないことを自覚できないから。

きちんと知らない。
食べたことはあっても、お弁当がどういうものかは知らない。

それを認識してもらうための質問。
正しく答えようとするから、自分の外側にある知識で誤魔化そうとする。
自分の内側に、「お弁当」」についての認識は、あやふやであることを誤魔化そうとしてしまう。

質問されたら、正解を答える。

これがこの時は通じない。
自分の内側にある認識を尋ねているのだから、外側の知識で答えても、正解にはならない。
テストで言えば、カンニング。
カンニングしてでも、正しい答えを出そうとする。

これって正しい?

ここでは正しくない。
自分の内側にない知識であることを認識するから、学ぼうという意識が芽生えてくる。
そういう芽生えないし、知的な感性は育たない。

自分の内側にない知識を、知識として獲得する。

これが学びの本質ではないとかと考えている。