6年生の情報科な日々-特別な7回目

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2013年6月7日、6年生の情報科な日々の特別な7回目。

内容が特別という意味ではない。
内容は、いつも通り。

研修会のため、20人の1回だけの授業。

6年生のひとクラス。
半分は、英語科の授業。
半分は情報科な日々。

英語科の6年生の授業を公開するためのトリック的な授業。
20人の授業の残りの半分を、情報科な日々が引き受けて、公開授業。

残り半分、というと言葉はよくないが、決して悪い意味ではない。
公開授業を企画する過程で、半分でも生き残った情報科な日々。
本当はない予定を、トリック的に生き返らせた。


内容は、いつも通り。
研修会の公開授業だからと言って、特別な授業はしない。
研修会のために授業を作るなら、子どもたちに失礼な話。

いつもの授業が、十分に研究授業に耐え得る内容じゃなければいけない。
いつ、誰に見られても、恥ずかしくない授業を目指すことは、外的な意味で重要なこと。
常に最上の授業を進めているという意識を持たなければならない。

いつもと同じ。

説明は、ほぼ終了。
あとは、子どもたちが作業を進めるだけ。

子どもたちと相談。

iPad miniのプレピュー。
説明する?


いらない。


iBooks Autherの使い方。
説明する?


いらない。


グループでのナレーション原稿のまとめ方。
説明する?


いらない。

それじゃあ、それぞれの作業を始めよう。
終了10分前に、画面をロック。

子どもたちの作品をセンター画面に表示して、内容を確認。
読めるかどうか?
内容を正しく理解しているか?


ここだけを、ちょっと変更。
いつもは終了、5分前。
子どもたちの作業時間を極力、多くしたい。

特別な20人の授業。
この20人は、他の6年生より、40分、作業時間が延びている。
だから、いつもより5分短くなっても、まだ35分は長いことになる。

まさか、何もしないで終わるわけにもいかないので、いつもより少し長めに内容の確認をした。

喋らない授業。


授業といえば、教師が喋るもの。
延々と喋る先生もいる。
説明に多くを費やす授業もある。


授業は子どもが作るもの。


これが情報科な日々の基本的な考え方。
だから、必要がなければ喋らない。


必要な情報は、すでに子どもたちに与えてある。
だから、説明はなくても作業を進めることはできる。
子どもたちに、説明するかどうかを確認した上で、「いらない」というから説明はなし。

子どもたちは、作業を進めたい。
説明を聞くよりも、自分たちで進めたい。


分かったつもりかもしれないけれど、説明に時間を割くよりも、作業を進めたい。
全員を対象とした概説的な説明よりも、自分に必要な説明が欲しい。
作業を進める過程で、解決できない問題が起こった時に説明が欲しい。
コアな説明が欲しい。

もう余計な説明に時間を割かれたくないという発想。


だから、授業者がほとんど喋らない。
説明も個別の質問が出た時だけ。
子どもたちの画面を覗き込んで、必要と思われる説明をこちらからする。

全体に対する一斉授業は、最後の10分。
最後の10分で、子どもたちの内容を確認する時だけに限られる。


40人、今回は20人だけど、はコンピュータ室というと場に集まっている。
それぞれが4人のチームでの役割分担に基づいて、自分の作業を進める。

作業の内容は、千差万別。
全員が違う、ということすらできる。


クラスは集まる場。
だからと言って、全員が同じことをしなければならないという理屈にはならない。
それぞれが、それぞれの力に合わせた学びを進める。
これこそが、1人1台のメリット。
少なくとも、今でも情報科な日々の時間は、1人1台になる。

40人いるから、全員が同じことを進める。

新しい時代に、このやり方は似合わない。
一斉授業を必要に応じて進める。
それが常態であることを、否定する。


これこそが、新しい時代の新しい教育の姿だと考えている。

一斉授業は、最低限のリテラシの説明に限定する。
それが終われば、あとは個別学習的な展開にする。


これこそが、1人1台の授業に向けた基本的な発想であると信じている。